上水道の始まりは
コレラと大火
明治23年(1890年) 大阪はコレラの大流行に加えて「新町焼」と呼ばれる大火に見舞われ、衛生レベルの向上と防災の観点から、水道創設の気運が高まりました。
明治28年(1895年) 大阪市は我が国で4番目の近代的水道として、当時の市の予算の3倍の工事費を費やして、水源地を淀川左岸の桜ノ宮に、配水地を大阪城に設け、総延長325kmの上水道配水管が整備されました。

大阪市初の浄水場
上水道の創設による水道普及や日清戦争を契機とする商工業の著しい発展、第一次市域拡張による人口の激増に伴う需要水量の増加等に対応するために拡張工事を行い、大正3年(1914年)最初の浄水場である柴島浄水場が完成しました。

大阪市の上水道は、柴島・庭窪・豊野の3つの浄水場を有し、導水、送水、配水管の合計は約5200kmに及んでいます。
下水道の歴史
急激な経済発展と
深刻な水質汚染
昭和30年代後半の大阪は、経済発展に伴う急激な人口集中と都市化が進んだ時代でした。
40年代前半にかけて河川はごみや工場排水などにより、深刻な汚染が生じていました。

下水道の整備
大阪市の下水道は、1894年(約120年前)に着手し、当時、日本に前例のない大規模な近代的下水道として整備を行いました。以後、大阪市の下水道は日本の大都市でトップの普及率で進捗し、近年では下水の高度処理化を進め、再生水をさまざまな用途に供給し、水辺の再生を図るなどの都市環境の回復に努めています。
大阪市初の下水処理場
1925年に下水実験処理場を建設し、この実験結果を基に下水処理計画を策定。
1931年に着工し、1940年に大阪市初の下水処理場として津守下水処理場を完成させました。
これにより、直接河川へ放流していた下水を処理することが可能となりました。

高度処理水の大阪城外濠への供給
現在の大阪市は12ケ所の下水処理場と1ケ所の汚泥処理場、約4900kmに及ぶ水管渠を有しています。下水処理場で高度処理された大量の水は、都市の美しい水環境をつくる資源として、都市化によって固有水源を失っていた河川に送水することで、市街地へのせせらぎの復活や、水位低下が問題となっていた大阪城外濠の水量改善など、都市における美しい水辺環境の創造にも役立てています。
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環境対策 昼間でも
車はライトが必要でした
大阪市では1960年頃から工場や自動車が増え、大気が霞んで自動車は昼間でもヘッドライトを点けて走っていました。

大阪市のごみ焼却工場の移り変わり
大阪市は1903年に最初のごみ焼却場として寝屋川焼却場を建設。
当初は人手に頼る作業方式でごみを焼却処理していました。

1960年代からは機械式の焼却炉を備えたごみ焼却工場の建設を進め、工場内の作業が機械化されました。

現在では、9箇所のごみ焼却工場を有し、自動化・機械化された最新鋭の焼却設備によって、衛生的かつ効率的にごみを処理し、焼却の際に発生する熱も発電に利用するなど、エネルギーの有効活用にも注力しています。
